『お堂でみる阿修羅』展

2018年2月28日

興福寺に行き 観賞してまいりました。

 興福寺国宝特別公開2009 ?お堂でみる阿修羅?

[img align=left]http://musickeiko.jp/uploads/photos/239.jpg[/img]通常は国宝館に展示される阿修羅像をはじめとする八部衆・十大弟子像の現存する天平乾漆像14躰すべてを仮金堂に安置。古の時代に思いをはせながら、天平の仏像と対峙できるまたとない機会となります。堂内では、江戸時代に造られた本尊釈迦如来坐像、鎌倉時代の薬王・薬上菩薩立像と四天王立像も安置され、各時代を代表する珠玉の仏像の美を堪能いただけます。
また、仮金堂とともに、寺内建造物のなかでも屈指の国宝・北円堂を特別開扉いたします。運慶一門による本尊の弥勒如来坐像や無著・世親菩薩立像など鎌倉彫刻最高峰の名品が一堂にそろう北円堂内陣に、初の本格的な照明デザインを取り入れてご覧いただけます。【開扉場所】仮金堂・北円堂 (HPより)

2時半ごろに並んで150分待ちでした。
が、、2時間ぐらいで入れたのではないかしら・・・

並んでいる時、折れ曲がり毎に出会う カップルらしき二人。

彼女は 完璧に無表情。
彼は 挙動不審(笑)、おどおどしている。

喧嘩したか!
しかし喧嘩してここに並ぶ?

かれ、何とかしろよ!
ウジウジしている場合じゃないぞ!

手をサッと握るぐらいしてみたら?
彼女 携帯見出したよ、メールしてみたら!
いや、メール見て睨まれたら もう最悪か・・

などと 後ろであれやこれやと妄想&お節介(笑)

おかげで あっという間の2時間でした(≧∇≦)

『お堂で見る阿修羅』
良かったですよ!!

やはり 生で観るのは迫力が違うような気がします。
国宝級が一同に祀られているのも圧巻でした。
北円堂も良かったです!

お時間あれば是非に!

国宝の写真はこちらから
http://www.kohfukuji.com/property/photo/index.html

パンフレット

[img]http://musickeiko.jp/uploads/thumbs/240.jpg[/img]
(クリックすると大きな画像が見れます)

釈迦三尊像
1釈迦如来坐像
 木造 禄高362.0cm 江戸時代・18?19世紀
2重要文化財薬王菩薩立像
 木造像高36zOcm 鎌倉時代・建仁2年(1202)
3重要文化財 薬上菩薩立像
 木造 像高360.0cm 鎌倉時代・建仁2年(1202)
天平草創期の中金堂の造営は和銅3年(710)のヽ平城遷都とともに藤原不比等によって着手されたが、完成後は火災と復興を繰り返す。現在の仮金堂は昭和49年(1974)に建立されたもので、江戸時代に制作された釈迦如来坐像を本尊とし、もと西金堂にあった薬工・薬上菩薩立像を両脇侍として安概している。両菩薩は像内納入の願文等から、建仁2年(1202)に造られたことが判明。運慶周辺の仏師が制作したものと推定される貴重な作例である。中金堂は来年秋に待望の再建立柱の運びとなった。

重要文化財 四天王像
4?7 康慶作 木造 像高198.0?204.5cm
鎌倉時代・文治5年(1189)
四天工像は一乗寺本の南円堂曼荼羅図の四天王とポーズや細部の形式などが一致し、本来は南円堂の像であったことが明らかとなった。
南円堂諸像は康慶工房が文治4年(1189)から翌5年にかけて制作したが、四天王像については「南円堂御本尊以下御修理先例]という記録から、工房内の実眼が担当したことがわかる。量感のある堂々とした姿は迫力に満ちており新時代の感覚が十分にうかがえるが、重々しい体の表現などは12世紀後半の奈良地方の彫刻作例ともよく似ている。

国宝十大弟子・八部衆像
8?13十人弟子像 14?21八部衆像
説活乾漆造 像高144.3?155.4cm(五部浄)現状総高50.0cm
奈良時代・天平6年(734)
天平5年(733)正月11日に亡くなった母橘三千代の1周忌法要のために、娘の光明皇后が建ふとした西金堂に安置された像で、その表現は皇后の信頼が厚く留学僧として唐から帰国した道慈が指導した可能性がある。皇后のための役所である皇后官職が制作工房を管した。脱活乾漆造(麻布を漆で貼り合わせ、内部は空洞で木組を入れて補強する)の像で彫刻は将軍万福、彩色は秦牛養が指導したと考えられる。建造物と仏像を含めた工事期間は352目。作叉の延べ人数は55107人という大事業であった。

国宝 阿修羅立像(八部衆のうち)
18脱活乾漆造 像高153.4cm
奈良時代・天平6年(734)
阿修羅は古代インド神話に登場する軍神で、最高神インドラに戦いを挑む激しい怒りの姿で表わされる。仏教に帰依して守護神となってからは、その激しさで仏教を守る役割を担うことになる。しかし、興福寺の阿修羅は3つの顔と6本の手をもつ異形であるが、直立するハ頭身という見事なプロポーションで細身の美少年。憂いを含む表情は繊細で内向的であり、怒りや激しさは全く見られない。その背景には『金光明最勝王経』が説く過去の罪障を内省し消滅させる「懺悔」の思想があったものと考えられる。

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国宝 北円堂
創建:養老5年(721)
再建:承元4年(1210)
北円堂は養老4年(720)に亡くなった藤原不比等の苔提のために、元明太子天皇と元正天皇が建立を発願し、長尼王に命じて一周忌にあたる翌年の8月3日に完成させた。ハ角堂は廟堂としての意味をもつ。その後、永承4年(1049)の火災で焼失し、治承4年(1180)の平重衡による南都焼き討ちでも失われたが、承元4年(1210)に復興された。興福寺伽藍で今残る堂宇の中ではもっとも古く、嘉暦2年(1327)と'享保2年(1717)の興福寺大火の時にも無事であった。

国宝 弥勒如来坐像
1 運慶作木造像高141.9cm
鎌倉時代・建暦2年(1212)頃
北円堂諸像は治承4年(1180)の南都焼き討ち後に運慶一門によって再興された。今、本尊の弥勒如来と無著・世親の三体が残る。弥勒如来の台座銘文から像ごとの担当仏師が決められ、弥勒如来は源慶と静慶、法苑林菩薩は運覚(旧名円慶)、大妙相菩薩は不明、四天王は持国天が湛慶、増長天が康運、広目天が康弁、多聞天が康勝、無著は運賀、世親は運助という割り振りであった。
運座は総指揮を取り作風の統一をはかったものと考えられる。源慶、静慶、運覚は運慶工房のベテラン仏師、湛慶以下は運慶の子息である。

国宝 無著・世親菩薩立像
2・3 運慶作 木造像高(無著)194.7cm、(世親)191.6cm
鎌倉時代・建暦2年(1212)頃
無著と世親は4?5世紀頃の北インドの僧侶兄弟。法相宗の祖師として尊崇されるが、運慶が両像で追求したのは人種や時代を超えた理想的な仏教の求道者の姿であったと考えられる。ニ体ひと組で対照的な表現を示しており、老年の無著は胸に裂で包んだ箱を抱いて優しく人々を見守っている。一方、弟の世親は壮年で遠方を見つめる意志の強い逞しい姿である。ともに体格がよく量感に富んでおり、玉眼による目の表情がいきいきとしている。運慶の代表作というだけでなく日本彫刻を代表する名品の一つである。

国宝 四天王像
4?7 本心乾漆造像高1347?139.7cm
平安時代・延暦10年(791)
増長天と多聞天の台座裏の墨書から、もと奈良の大安寺に伝来した四天王像で延暦10年(791)に制作されたことと、後に興福寺に移り弘安8年(1285)に経玄得業が修復したことがわかる。木肌の上に厚く木屎漆(木屑と漆を混ぜたもの)を盛り上げて整形する本心乾漆造の作例。高さは140センチメートルに満たないが下半身は安定し、持国天や多聞天では筋骨が隆々としている。誇張的な表現に特色があり、持国天は瞳が飛び出さんばかりでユーモラスである。